エリーシアとルカが対峙してから暫く、両者は一歩も動く事無く時間だけが過ぎていく。
周囲には事態を見極めようとじっと様子を伺っている盲目の少女りよなと、睨み合う女性二人を止めることも出来ず、震えながら事の成り行きを見守っている早栗の姿、そして、鈴木さんの生首がある。
小柄な体躯で素手のまま構えをとり相手を睨み付けるルカに対して、片やエリーシアは日本刀を持っている。しかし、この圧倒的に有利な状況にあっても焦りを抱いているのはエリーシアの方であった。
(どうして、こんな事になるのよ……)
エリーシアの目的は眼前の少女を殺す事ではない。不運な偶然が重なってもたらされた誤解を、何とかして解きたいだけなのだ。刃を向ける事などもっての外、直ぐにでも刀を納めて説得に入るべきである。
(そうよ、分ってる。でも……)
それを許さないのはルカの殺気。剣の達人たるエリーシアであろうとも決して油断の出来る様な相手ではないと理解できる。凄まじい怒気を孕んだ少女の瞳は、エリーシアを殺すことさえ辞さないと明確に訴えてくる。
覆らない戦力差を僅かでも埋める責めの一手。格闘術の心得の無いルカに出来ることは戦闘経験によって培われた相手を圧倒する技術に頼ることだけ。そして、ルカの威圧はエリーシアの行動を制限する点では期待以上の効果を上げていた。
(今の彼女を近づけるわけにはいかない……!)
素手のままではルカに勝利など万に一つも有り得ない。ルカの狙いはエリーシアの構える日本刀唯一つ。エリーシアが少しでも気を緩めたり停戦の意を示せばルカは即座に懐に入って刀を奪い、エリーシアを切り伏せるだろう。
それが分るだけにエリーシアは動けない。彼女が動くことは即ち殺し合いの合図。今にも爆発しそうな程に張り詰めた空気を纏うルカ相手には口を動かすことさえ危険。
唯一の勝機に全霊を賭けるルカを説得など出来よう筈が無い。為す術のない現状に痺れを切らしたエリーシアは説得の意思を捨てた。多少手荒い手段になる事を覚悟してルカと対峙する。
(一先ず眠っていて貰うしか、ないっ!)
瞬時に刀を半回転させ上段から打ち込む。一切の無駄を省いた動きから繰り出されるその一撃はまさに神速。いかにルカが優れた身体能力を持っていようとも避ける事など不可能。
頭部を殴打されたルカは何もする事が出来ずに意識を手放す、筈であった。
「はあっ!」
金属を打ち据える鈍い音が広場に響く。
ルカは峰が反されたのを見て取るや、即座に地を蹴り、迫り来る刀をハイキックで弾き飛ばしていた。
「なっ!?」
自分の剣が受けられる事など夢にも思っていなかったエリーシアは瞬間、動きを止める。その隙を逃さすルカは流れる様な所作で続けて回し蹴りを繰り出す。咄嗟にかわそうとするが時すでに遅く、渾身の一撃がエリーシアの右手を砕かんとする。
「ぐぅっ!」
激痛がエリーシアの右手を襲う。それでも決して剣は離さない。考えての行動ではない。それは、騎士としての意地。たとえ手が砕けていたとしても、自ら剣を手離すことは自身の命を手離すことに等しい。そんなことは絶対に許されない。
それどころか、まだ、手は砕けてもいない。無意識の内に手は刀を握りなおし、エリーシアに迫り来る危険を払う為に、動いていた。
「ちぃっ!」
二人の距離が開く。ルカにとっては致命的な失敗。速さがあっても力の無いルカの一撃では、エリーシアの手から刀を飛ばすには至らなかった。だが、確実にダメージは与えている。諦めずルカは追撃の為腰を落とす。
そこへ、エリーシアの持つ日本刀の刃が、ルカの腹部を一閃した。
「なっ、あっ……」
繰り糸を失ったかの様にうつ伏せに地面に倒れこむルカ。遅れて、彼女の腹部からは血液が流れ出し、地面に血溜まりを作っていく。
「がはっ、ごっ、ほっ、あ……ぅ」
ルカには何が起こったのか分からなかった。気絶させるために手加減された攻撃ではない、相手を倒すためのエリーシアの全力の剣撃は一撃でルカの戦闘力を奪っていた。
唯一の誤算は、日本刀を握り直した事でルカに向かって刃を向ける形となった事。エリーシアが普段使っている武器は両刃の西洋剣、日本刀を扱った経験が無くては無意識の内に峰にまでは気が回らずとも無理はなかった。
「しまったっ!!」
最悪に次ぐ最悪の展開。もう幾つ最悪が重なったのか分らない。内心で頭を抱えながらエリーシアはルカに駆け寄り、急いで傷の具合を確認する。
(よかった……出血はしているけど、致命傷じゃない……)
不幸中の幸いにして傷はそれほど深くは無かった。腰を落とす動作が回避に繋がったのだろう、それが無ければ確実に致命傷だった。ほっと安堵するエリーシアの視界の端に、尻餅を着いて後ずさっている少女の姿が映った。
早栗は今や混乱の極致にあった。目の前で、少女が血を流して倒れている。自分を守ると言っていた少女はその身体を血で染めた金髪の殺人鬼に殺されようとしている。
「貴女、何をしているの。こっちに来て、手伝って。この娘の治療をするから」
「ひっ……!」
殺
人鬼が何か言っている。治療をする? そんな筈が無い。たった今、自分が切りつけた相手を治療する殺人鬼が居る筈がない。人を殺すからこその殺人鬼、なら
ばその行動は全て殺人の過程であるはずだ。だととするのなら、殺人鬼の目的は、ルカを拷問にかけることなのか。治療が済めば、逃げる可能性のある自分を先
に殺すのではないか。早栗の思考はどんどんと悪い方向へ流れていく。
逃げなければ。涙が頬を伝ってくる。早栗は何時の間にか、自分が泣いていた事に気付く。立とうと思っているのに、立てない。視界は殺人鬼に釘付けで他のものを見ている余裕は無い。足は空しく地面を滑るだけ、亀の様な速さで後ずさるのことしか出来ない。
早栗の恐怖に気付いたエリーシアは早栗を落ち着かせるために殊更ゆっくりと、優しく話しかけるが、今の早栗にはそれさえ逆効果だ。
「安心して。これ以上、貴女達に危害は加えないから。貴女はこの娘の、仲間でしょう? だったら、こっちに来て、手伝って」
「ひっ、ち、ちがっ…わっ、私は…仲間なんかじゃ……なくて…そっ、その人が…ついてきてって……守ってあげるからって……だ、だから、ついてきただけで……だから、ち、ちがうの……私は、関係、ない……お願い、こっ、殺さないでぇ……」
エリーシアを完全に殺人鬼と認識している早栗には、もはやどんな言葉も届いてはいない様子だった。顔からは涙と鼻水を流し、恐怖の余り失禁までしてしまっている。自分の存在が相手をここまでの恐怖に追いやっているという事に、エリーシアの心も少なからず傷つく。
(やれやれね。本当、どうしてこんな事に……)
このまま放っておいては発狂しかねない。そう判断したエリーシアは素早く魔法によるルカの止血を終えると、立ち上がって早栗に近づいていく。
そして、エリーシアのその行動は、またしても最悪の展開を呼び込む事となってしまう。
「いっ、いやあああぁぁ! こ、来ないでええぇ!!」
「えっ、ちょっと、待って!」
殺
人鬼が近づいてくる。ルカではなく、自分を目標として。その事実は今の早栗にも最大の危機として認識できた。立てないなどとは言っていられない。即座にエ
リーシアに対して背を向けると、早栗は地面に手を付いて犬の様に駆け出していた。後ろで何か言っている。聞こえない。ルカがまだ倒れている。知らない。逃
げなければ殺される。自分の命より優先すべき事なんて、早栗には何もない。こうして早栗は、再び森の中へと足を踏み入れていった。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
殺人鬼の元から逃げ、一度も立ち止まらずに走り続けた早栗はここに来てついに足を止めた。心臓はバクバクと鳴っている。足はガクガクと震えている。後ろを振り返っても殺人鬼の姿は無い。荒い息を吐きながら早栗は地面に座り込んだ。
まだ逃げ切ったと決まったわけではない。それでも少し休まない事にはこれ以上は走れない。呼吸が落ち着いてくると共に先程の情景が思い返される。置いて来てしまったルカの事を考えると途端に不安になるが、早栗にはもうどうしようもない。
(し、仕方ないよ……逃げなきゃ、私が殺されてたんだから……守ってくれるって、言ったの、あの人なのに……)
守ってくれると言ったのはあの少女の方だ。それが適わないのなら、一緒には居られない。自分が逃げたのは、間違っていない。早栗は無理矢理でもそう考えて納得するしか無かった。誰かに守って貰えなければ、無力な自分はすぐに殺されてしまう。
そう、殺されてしまう。けれど、それは、誰に殺されるというのか?
不意に、早栗の周囲が暗くなる。
殺人鬼への恐怖から、早栗は完全に忘れてしまっていた。早栗達は、どんな過程を経てあの場所に辿り着いたのか。ルカは、一体何から自分を守ってくれると言ったのか。
早栗が振り向くとそこには、大斧を担いだ、黄土の巨人の姿があった。
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