≪其の一◇マシュマロ的な≫
「・・・・・・・・・!!!」
彼女は半ば跳ねるように飛び起きた。まるで全速力で駆け抜けたかのように呼吸が激しく、動悸が荒い。全身が不快な汗でべとべとに濡れている。
彼女は辺りを見回した。それは狭くてうす汚いホテルの一室のような場所だった。部屋の真中に置かれている質素な木製のテーブルを中心に、まるで溢れだした
かのように部屋のところかしこに、様々な――あるものは豪奢で、あるものはシンプルな――多種多様な形状をした財宝やその類のものが散らばっている。
彼女は自分が寝ていたベッドで、自分と背中合わせで眠っていた人物に目をやった。そこにはよく見知った華奢な背中が横たわっており、その肩が呼吸とともにゆっくりと上下している。時折いびきと、意味のわからない寝言が発せられる。
「・・・お姉ちゃん」
天崎奈々の口から、弱弱しい声が漏れ出た。
返事はない。
「お姉ちゃん・・・・!」
語気が少しばかり強くなる。彼女の心は、よくわからない何かで今にも張り裂けそうだった。
「・・・んー?」
体勢を全く変える事なしに、目の前の人物が声のみでそれに応じた。
「奈々ぁ―?どーしたー?」
眠気と惰気を存分に含んだ、気の抜けるような声だった。だが、その声こそが奈々の荒んだ心を安堵で濡らしてゆく。
そして、入れ替わりに激しい情動が奈々を襲う。
泣きたいような、叫びたいような、怒りとも嘆きとも悲しみともつかぬ、激情――
「あ・・・・」
その感情のうねりが、奈々の口をついてあふれ出ようとする。が・・・彼女はすんでのところでそれを押し留めた。
「ん?どした・・・?」気づけば涼子が怪訝な表情で奈々の顔を見つめている。鈍い彼女でも、流石に奈々の奇妙な様子に気がついたようだった。
「・・・・・・別に」
それだけをそっけなく言うと、奈々は再び涼子に背中を向けてベッドに転がった。
幾らイヤな夢を見たからって、そんな下らないことで姉に泣きつくなんて柄じゃない、バカバカしい。
自分自身に生じた甘えた感情に腹を立て、不貞腐れたように奈々は目を瞑った。
むにゅ
奈々は背中に柔らかくて暖かい、そしてなぜか無性に腹立だしいものが押し当てられるのを感じた。
「何の・・・」
・・・つもり、という奈々の言葉は姉がとったその次の行動によって遮られた。
奈々の頭の後ろから白くて細く、それでいて引きしまった腕が伸ばされ、そしてそれは奈々の頭を優しく包んだ。
「っ・・・!」
姉とは思えぬ突然の奇行に、思わず身をよじって逃げ出そうとする。しばらくばたばたともがいたが、頭をしっかりとホールドされているためそれも適わず、結局あきらめた。
涼子の方といえば「よーしよし、どうどう」などとアホな事を言っている。
「・・・何のつもり」
改めて奈々は姉に問う。
「いやぁ、何となく」帰ってきたのはいつもの姉といえば姉らしい、直感的な返事だった。奈々は溜息をついて、それ以上尋ねるのを止めた。どうせ無駄だという事を理解したからだ。それに、少しばかりだが・・・こう思った。このままでいるのも、悪くは無い。
それからしばらくお互いに話しかける事もなく、静かな時だけが流れた・・・。
その静けさの中、奈々は思った。考えてみたら・・・こんな事は別に初めてではなかった。そんな気がする。
ずっと昔・・・それこそ奈々がまだ銃の扱いすら知らなかったほどの昔・・・こんな事もあったのかもしれない。あるいはそれは・・・夢か、妄想か、思い込み
なのか、あるいは美化された記憶にすぎないのかもしれない・・・。だが、奈々が感じていたのは、確かに記憶の源泉に眠る、懐かしくて、柔らかで、心地よい
暖かさだった。
「ねえ、お姉ちゃん・・・」
「んー?」
何だろう、何の話をしようとしていたのだろう。忘れてしまったのか、最初から考えてなかったのか。
「私達・・・ずっといっしょだよね」
意識の奥底から、彼女の口をついて出た言葉はそれだった。
涼子は穏やかな声で答えた。
「もちろん!」
表情は分からない。
「私達はずっと一緒だよ。ずっと・・・ずっと・・・」
「うん・・・」
涼子の腕の中に包まれたまま、奈々は静かに眼を閉じた。
もう、寂しさはなかった―――
「でもさ、奈々」
やがて、涼子は改めて静かな口調で話しだす。片手で、奈々の柔らかな髪を優しく撫でながら。
「弱いアンタは、嫌いだよ――
頭を撫でていた涼子の手がおもむろに、奈々の髪を乱暴に掴んで引きずり上げた。
「がっ・・・!?」
穏やかな深淵に沈もうとしていた意識が急激に覚醒する。
「お・・・おね・・・・・・・ちゃ・・・!」
両手を伸ばして、なおも髪を強く引っ張り上げる姉の手を振りほどこうとする。
だが・・・なぜか、いつまでたっても姉の手にたどり着かない。まるですり抜けるように、そこには何一つとしてない・・・
「あ・・・」
奈々は気づいた。
違う、無いのは姉の手じゃない・・・。
私の手が――――
掴まれた髪ごとぐるんと頭を回され。奈々は己を苛むその存在と対面する・・・。
「うあああっ・・・あっ・・・・あ・・・・!」
そこに姉などいない。初めからいなかった。
優しい幻想の世界に亀裂が入り、砕け散る。
黄土のバケモノ、ルシフェルがそこにいた。つい先程、彼女を苛んでいたばかりの暴力の権化が――
|