癇に障る放送が終わると辺りは急に静けさを増した。
ついさっきまで窓をたたいていた雨はぴたりと止み、今は音もなく白い雪片が舞っている。
部屋にはまだ蒸し暑い空気が残っていたが、窓の隙間から冷やりとした外気が滑り込んできて急激に室温を下げる。
かすかな門番の寝息を背景に八蜘蛛は机に広げた地図から目を上げた。
もう一度さっきの放送の内容を頭の中で反芻して顔をしかめる。
ロシナンテが死んだ、どうやらそれは本当らしい。
別にその死を悼んでいるわけではない、ただ強い衝撃を受けていることは事実である。
ロシナンテは強かった、魔王三将軍筆頭の肩書きは伊達ではなく、あの凄まじい炎の前では自分の糸など何の役にも立たない。
相性の悪さを差し引いたとしても歴然とした力の差が自分とあいつの間にはあった。
しかし、そのロシナンテはあっけなく死んでいた。
しかも条件次第では魔王軍最強と目される門番まで、さっきの戦闘では壊滅的なダメージを負っている。
最初の放送を聞いていないので断定はできないが、この分では萩が生きている可能性は限りなく低そうだ。
殺し合いが始まって最初に出会った金髪の女、人の体を乗っ取る蛇のような化け物、巨大な怪物を操る老人、そして自分の理解を超えた恐るべき力を持った少女。
今一度、認識を改めなくてはならない。
自分はまだまだこの殺し合いのレベルを甘く見ていた………否、今も甘く見ているのかもしれない。
この先、ここまでの戦いを勝ち抜いてきた更なる猛者たちが立ちはだかってくるのかと考えると背筋に嫌な寒気が走る。
(とにかく、今は体力の回復を優先しないと)
ちらりと門番のほうを見やると、場違いなほど幸せそうな顔ですやすやと寝息を立てている。
一人で動き回るのは危険だが眠っている門番を起こすなどそれこそ自殺行為だ、問答無用で切り殺されかねない。
ここは多少の危険を冒しても一人で行くしかないだろう。
それに用はすぐに済む。
新たに二つ禁止エリアが書き込まれた地図をデイパックにしまうと、門番を起こさないよう注意しながら八蜘蛛は静かに動き出した。
「うっ……」
扉を開けると吹き込んできた冷気に思わずひるみ、再び体に震えが走る。
寒さのためばかりではない、最も恐ろしい男の存在を思い出したからだ。
(天候を操るなんて………どこまで出鱈目な力なの……)
キング・リョーナ
今この島にいるすべての参加者を集めた男。
あの男を何とかしなければたとえ生き残ったとしても……
それ以上は考えないことにした、とにかく今は目先の目的を果たすとしよう。
八蜘蛛が出てきたのは先ほどの戦場から程近い小さな民家だった。
あの戦闘のあと、今にも倒れそうな門番を引きずってこの家に入った、すると門番はすぐさまベッドで寝息を立て始め、それと同時に放送が始まって今にいたる。
放置されたままのレボワーカーには近づかないようにして、八蜘蛛はまず少しでも体力を回復するために、シノブの亡骸から養分を吸い取ろうと試みた。
しかし、もともと異常な速度で生命力を消費していたうえに、門番の“自虐無間”を受けたシノブの体からは全く養分を吸収することができなかった。
(まあいいわ、期待はしてなかったし)
建物の間の路地にはルカの入った繭が置いてあるが、今あれから養分を吸収したらそのまま殺してしまいかねない。
ひとまず養分の吸収をあきらめた八蜘蛛は、あたりに散乱したままになっていた門番のデイパックを漁り始めた。
「なにこれ………枕? まぁ、あいつらしいといえばらしいけど……」
それこそ門番を起こす秘密兵器なのだが八蜘蛛はそんなことを知る由もない。
他にもどこの国のものかわからない金や、魔力のこもった杖なども出てきたがどれも八蜘蛛には必要のないものばかりだ。
ちっ、と辺りをはばかることなく大きな舌打ちをひとつ、ここまでは当てがすべて外れてしまった。しかし、まだひとつあてが残っている。
「出てらっしゃい」
どこへともなく声をかけると、どこからともなく一匹の大きな蜘蛛が現れた。
八蜘蛛の手下のヨツメグモである。
その蜘蛛を手のひらに乗せると、八蜘蛛の顔に満足げな笑みが浮かんだ。
「よくやったわね、もどってなさい」
八蜘蛛の言葉とともにヨツメグモはどこかに消えていた。
そのとき再び背筋に震えが走った。
「……寒いのは苦手なのよね。さっさと済ませましょう」
どこまでも広がる鈍色の空を忌々しげに見上げると、まだ治りきらない足を引きずりながら、八蜘蛛は町の出口へと向かっていった。
ちらちらと粉雪が舞い散る中、もくもくと歩いている少女がひとり。
初香である。
初香は震えていた。
唇は紫色になり、肩を抱きながら震えていた。
それもそのはず、彼女の服装はTシャツ一枚にスカート、その上下着もはいていないというこの気温のもとでは厳しすぎるものだった。
しかも彼女は裸足だった。
さっきまで雨に打たれていた地面はぬかるんで、半凍りの泥が容赦なく足に噛み付き、もはや足の感覚がなくなっていた。
それでも初香は止まらなかった、なぜなら彼女には時間がなかったから。
先ほどの放送で運悪くD-5が禁止エリアに指定されてしまった。
不幸中の幸いだったのはD-5が禁止エリアになるのは四時間後だということだ。
それまでになんとしても豪華客船にたどり着き、首輪を解除するために必要な道具を集めなくてはならない。
もしできなければ、自分が見捨てた美奈に申し訳が立たない。
(美奈………)
放送が始まったとき、ほんの少しだけ期待していた。
もしかしたら、何か奇跡が起こって美奈は生き延びているかもしれない、と。
しかし希望はあっさりと砕かれてしまった、そんな都合のいい奇跡は起こらなかった。
美奈はたしかに死んだのだ。
それから初香はずっと歩き続けている。
今、初香は道沿いに廃墟を少し過ぎたあたりを歩いていた。
本来なら、豪華客船へは橋を渡っていったほうが近いのだが、その進路はとらなかった。
橋の手前で死体を見つけてしまったのである。
あたりにはすでに夜の帳が落ち始めている。
都会の夜闇とは全く違う、真の暗闇がもう間近に迫っていた。
厚い雲に覆われた空には月明かりもなく、懐中電灯も持っていない初香にはほとんど何も見えない。
(真っ暗になる前に早く行かないと、道に迷ったりしたらそれこそおしまいだ)
そのとき突然、右手の茂みの中から何者かが飛び出してきて、一筋の光が初香の顔をまっすぐ照らし出した。
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