突然、訳の分からない場所で、訳の分からないやつに、訳の分からないことを言われたと思ったら、訳の分からないままに少女の首が飛び、訳の分からないままこの森に飛ばされた。
オーガは今、呆然と森の中に突っ立っていた。
訳の分からないことばかりである。
しかし、彼には今、それらの疑問を考える余裕もなかった。
もっと差し迫った危機に直面していたからだ。
「腹……減ったなぁ………」
そう、餓えである。
彼にとってこれ以上に深刻な危機はない、今はまだ大丈夫だがこのまま空腹が続けば正常な判断力を失い、見境なく食料を確保しようとしてしまうかもしれない。
しかも、彼の食料とは人肉だ。
皆が疑心暗鬼になっているであろうこの状況で、人を襲っているところを誰かに見られでもしたら、まずいことになるのは目に見えている。
「そういえば、この中に食料が入ってるって話だったが……」
まさか人肉が入っていることはないだろう、でも万が一………
そんな希望を抱きながらデイパックの中を探ってみると。
「なんだコレ?」
出てきたのは小瓶、中身は塩のようだ。
他にも胡椒に砂糖、酢のようにメジャーなものを始め、料理に疎いオーガは聞いたこともないような瓶詰めされたスパイスやハーブなどが次々に出てくる。
「ふざけやがって、全部調味料ばっかりじゃねぇか!」
苛立たしげにデイパックをひっくり返すと、透明な容器に入った水が五本も六本もゴロゴロと出てきた。
「水は好きなだけ飲めってか………とことん人をおちょくってやがるな」
青筋を浮かばせて裂けた口元を引きつらせていたオーガだったが、一つため息をつくと、水だけデイパックの中にしまってさっさと行動を開始しようとした。
そのとき、水と一緒に転がり出てきたものに目が留まる。
「これは、短剣とロープか……使えねぇな」
おそらくこれがあの男の言っていた支給品だろう。
しかし、短剣を振り回すぐらいなら素手で戦うほうが自分には向いてるし、ロープも何かしら使い道があるかもしれないが、あくまで補助的なものだろう。
(とにかくまずは食料の確保、殺し合いだの何だのはそのあとだ)
そう思って動き出した彼の耳が、かすかな足音を捉えた。
「はぁ〜〜……」
と、無気力なため息を吐きながら森の中を歩む少女が一人。
彼女はティム、見た目はどこからどう見てもセーラー服の似合う女子中学生だが、その正体は日夜危険なダンジョンに挑む立派な冒険者だ。
(面倒くさいことになったなぁ)
あのゴッド・リョーナとか名乗る男は、どう考えても自分の勝てるレベルの相手ではない。
やばい敵にはけむりだま、ダンジョンのお約束だ。
(とにかく仲間と合流して、戦闘はそっちに任せよう)
実をいうと、デイパックから出てきた支給品はなかなかの“当たり”だったのだが、やはり一人でうろつくのは心もとない。
参加者名簿によると、リタ、ブロンディ、ドロが何処かにいるはずだ。
リタはともかく、他の二人と合流できれば戦闘はかなり楽になるだろう。
(これ以上の面倒はごめんだし、早いとこ………)
………殺気!
弛緩した体に緊張が走り、すぐさま武器を構えて殺気の元を探る。
「おっと、さすがにこれだけ近づけばばれるか」
声はほんの数メートル先の木陰から聞こえた、それとともに今まで抑えられていた殺気が爆発的に膨らんでいく。
獣のような殺気を放ちながら現れたのは口の裂けた大男だった。
(うわー、面倒なことになった)
相手は明らかに戦る気満々だ、おそらく話は通じない。
できれば一人での戦闘は避けたかったのだが、こうなってしまった以上は仕方がない。
目の前の大男は強そうだが勝機はある、大方支給品ははずれだったのだろう相手は丸腰だった。
対して、こっちには武器も防具もある、そこそこの斧にそこそこの盾、目の前の男に比べれば大当たりだ。
不意の攻撃に備え左の盾を前面に、いつでも打ち込めるように右の斧を高く構え、じりじりと間合を詰めていく。
一方、オーガは腕をだらっと垂らしたまま、二三度首を鳴らしているだけで構えも取らない。
(子供だと思ってなめてるな……でも、今がチャンスだ!)
あと一歩、あと一歩でこちらの攻撃が届く……
瞬間、敵が動いた、一瞬体勢を低くするとすさまじい勢いで一気に間合いを詰めてきたのである。
しかし、どう考えても素手で戦うには間合いが広すぎる、こっちの攻撃の方が、速い!
「もらったー?」
振り下ろされた斧が的確に相手の肩口に突き刺さる……筈だった。
だが実際には斧は振り下ろされることすらなかった。
相手が動いた、と判断した時にはもう完全に間合いを詰められていて、こちらが動いた時にはすでに凄まじい力で右腕を掴まれていた。
あまりのことに勝利の確信とともに叫んだ雄叫びが疑問形になってしまう。
ティムの混乱をよそに敵は次のアクションを起こす、なんと首に右腕をまわして抱きついてきたのである。
「なっ!?」
実際には身長差のせいで抱きつくというよりは覆いかぶさるような形になっているが、戦士とはいえ多感な少女であるティムは異性に抱きつかれて一瞬だが完全に思考が飛んでしまう。
しかしそれも一瞬のこと、ティムの意識はすぐに現実に引き戻されることになる。
右肩に感じた灼熱の痛みによって……
「がっ、ぎぃあああぁああぁああぁぁあっっうああああぁああぁ!!!!」
最初は何をされているのかも分からなかった、相手の両手はふさがっているはずなのだ、武器もなしにどうやったらこんな激痛を与えられるというのか。
しかし、相手が顔をうずめている自分の右肩あたりから、何かをむしり取るような音が聞こえたとき、ようやく人間にはもう一つ有効な武器があることを思い出した。
歯だ。
多くの生物が持つもっとも原子的な武器。
自分は今この男に喰われているのだ。
「はな、せっ!はなせぇぇぇ!!」
必死の抵抗を試みるもできることは限られている。
武器を持った右腕はがっちりと抑え込まれているし、首をホールドされていて後ろに下がることもできない、蹴りを放つには近すぎる、唯一できることといえば盾で相手の体を押し返すことぐらいだが、腕力の差を考えれば無駄な努力なのは明らかだ。
ティムが抵抗できないのをいいことにオーガは悠々と咀嚼を続ける、そして………
バリッ!ボキボキ!メキ!
「ぎぃいいいいいいいいい!!」
ついにその恐るべき顎はティムの肩の骨までも噛み砕いてしまった。
「が……あぁ………!」
ドスッと、重い音を立てて取り落とした斧が地面へと突き刺さる。
それと同時にようやく解放されたティムはよろけるように距離を取る。
本当なら今すぐにでも傷口を抑えてのた打ち回りたかったが、自分の右肩がどうなっているのか、どうしても確認する勇気がなかった。
右腕はもう動かない、武器も落としてしまった、もはや勝ち目はゼロである。
ティムは右肩から注意をそらすようにオーガに意識を向ける。
オーガはまだガリガリと何かをしがんでいたが、やがてガムのように吐き出されたのは食いちぎられた血まみれの服と、粉々になった骨のかけらだった。
「お前なかなか美味いじゃねぇか」
そう言ってペロリと長い舌で口の周りの血を舐めとる。
たったそれだけの動作で全身に寒気が走った。
それは相手に恐怖を与えるためのやすい演出ではない、純粋に血の味を、人の肉の味を楽しんでいる、だからこそ恐ろしい。
初めて見たときこの男を獣のようだと感じたが、この男は正真正銘の獣だった。
(逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!逃げろ!!)
でもどうやって?
立っているのがやっとなぐらいに震えているこの足でどうやってこの男から逃げ切る?
いや、それ以前にこの男に背中を向けることなど考えられない、そんなことをすればあっという間もなく殺される。
そんなティムの心のうちを知ってか知らずか、オーガは悠然と一歩を踏み出す。
目をそらすこともできず、つられたようにティムは一歩下がる
が、こわばった足はうまく動かず、無様にしりもちをついて転んでしまった。
依然、悠々と歩を進めるオーガ、情けなく後ずさりするティム、二人の距離はゆっくりと縮まっていく。
やがて張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、後先を考えずに背を向けて逃げ出そうとした瞬間、オーガがティムに飛び掛る。
ティムは背を向けるよりも早く地面に押し倒され、完全にマウントを取られてしまった。
無意味とは分かっていても全身をよじって最後の抵抗を試みる。
「どけっ!はなれろぉ!!」
「逃がすかよ、久々の上物なんだ」
ゆがんだ血まみれの笑みの奥に、血まみれの牙が鈍く光る。
先ほどの痛みを思い出して、ティムの口から思わず「ひっ」と声が漏れる。
「んん?……ああ、そうか、そりゃそうだよな………」
「え?」
「悪い悪い、ちゃんと殺してからじゃないと痛いよな」
「い……いや…だ………」
「悪かったな、さっきは腹が減りすぎてて我慢できなかったんだ」
その両手が、ゆっくりと首へとのびる。
「まあ安心しな、俺は女をいたぶるような趣味はないからよ」
その両手に触れられたら最後、自分はあっという間に絞め殺されてしまうだろう、いや、もっと単純に首の骨を折られてしまうのかもしれない。
「やぁ……だれか………たすけ……」
どちらにせよ、死はもうほんの数センチにまで迫っていた。
と、そのとき。
「そこで何してるの!!」
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